それは、大学を卒業してまもない頃、初めて欧州を一人で旅した時のことです。
さて。
その日は、オーストリアはウィーンで泊まる予定でした。
地下鉄を乗り継ぎ、やっとホテルがあると思われる駅で降りたところまでは良かったのですが、
地上に出た途端、途方もないウィーンの都会ぶりに圧倒され、立ちつくしてしまいました。
どこをどう行けば良いのか、まったく分かりそうにないのです。
季節は夏。
肩掛けのスポーツバッグにリュックがぱんぱん、といういで立ち。地下鉄の路線を間違わずに乗るだけでも一苦労だったのに、暑さの中ホテルを探しあてるなんてできそうにありません。
『地球の歩き方』を片手にうなだれている私の目に、
ふと、ドアの開いたお土産屋さんが見えました。
そして、中にアジア人の女性が見え隠れします。
笑っていて、優しそうです。
気づけば、一直線にその石造りのお店に歩き出していました。
「すみません、このホテルまでの道を知っていますか。」
開口一番、へとへとだった私はお土産を買うそぶりも見せず、聞いてしまいました。
談笑していたアジア人の彼女は、迷惑がる様子も見せず、店の同僚らしき男性を呼んでくれます。
「遠くはないけれど、初めての人はちょっと迷うだろうね。」
地図を見る男性は、顔の彫が深く、浅黒い肌をしています。
すると、もう数秒もせずに、その男性が言いました。
「道案内をしますよ」
地獄に仏、とは申しませんが、いやどうして…まさにその通りです。
ジーンズにTシャツを着たその男性は、軽々と私のずっしりとしたスポーツバッグとリュックを持ってくれます。
持ち逃げ?
いえいえ。そんな風に彼を疑う心の余裕はゼロです。
ニコニコと手を振る、アジア人の女性に見送られ
手ぶらになった私は、その背の高い男性のうしろにくっついて歩き出しました。
数分前に出会ったその男性は、暑い町中を迷わずに歩いていきます。
「なぜウィーンに来たのか」
「君はどこから来たのか」
そういう質問は一切ありません。
黙々と、ホテル名を書いた私のメモを片手に
重い荷物を担ぎ、ただ歩きます。
途中、道路工事をしている彼よりもっと背の高いおじさん達に道を聞く場面がありました。
ところが、そのおじさん達は驚くほどぞんざいに質問する彼に対応しています。
何だかとっても申し訳ない気持ちになり、
「ごめんなさい」
というと、
「ウィーンはたくさんの移民がいるからね」
そう答えました。
(その意味が何となく分かったのは、それから数週間後ドイツを訪れた時でした。)
さて。そんな道々、私は落ち着きがありませんでした。
それは、「チップ」です。
だいたい、書かれた値段以上に上乗せのお金を支払う、なんて文化がまるっきりない世界で暮らしていたため、どうにも慣れておりません。
でも、
ホテルでちょっとした手伝いをしてもらっても、それが荷物運びであろうと、ツアー申込の電話であろうと、カフェでも、レストランでも、とにかく、もう、「チップ」「チップ」。
そんな訳で、私はこの親切な男性に、どれだけのお礼=「チップ」をあげたらよいのかと、悩み、首から下げたお財布の札を確認していたのであります。
そうとう、”はずまなければ”ならなさそうだし…。
でも、一体いつどのタイミングでどうやって渡そうかな。
ここは封筒に入れて…。
初めてのウィーンで私はホテルにたどり着けず、近くの土産物屋に道を聞くことになります。
そこで出会った親切な「顔の彫が深い」男性がホテルまで道案内をしてくれました。ところが、私の頭の中は、彼に渡す「チップ」で頭がいっぱいです。そうこうしているうちに、ホテルが近づいてきました。
[ここから③]
↓
今思えば、色んなウィーンの話やお土産屋さんの話を聞いてみたら良かったと後悔します。
「良かった、ここだね。」
スポーツバッグを高く上げて、こじんまりとした建物の前で彼が立ち止まりました。
「ありがとうございます、これ…!」
感謝の言葉もそこそこに、私はユーロ札を何枚か手渡そうとしました。
「…???!!!」
「ノー…」
数えきれないほどのノー、とともに、
さっと私の荷物から飛びのき、
あっ、
と言う間もなく、もう数メートル先に進んだ彼は、
後ろ歩きになり、大きく両手を振っていました。
「良い旅を!」
ユーロ札を握りしめたまま、小さくなっていく彼に私は手を振り返します。
そして、こう思うのでした。
…なんだか
…ごめんなさい…。